ANASTASIA

カトリック求道中

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欲しいもの・・・




ああああああああっっ!!



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jojoフォン・・・・かよ!


http://k-tai.impress.co.jp/docs/news/20120516_532920.html




何でドコモなんだ・・・・


auで出して欲しかった・・・・・・・orz




・・・・・



恨めしつつ・・・



話題は変わって



「ナザレのイエス」の本・・・



gogakuさんには

某市の図書館で借りたら?と


安易に勧めたが・・・w




今日まで読んだ限りでは


やっぱり買った方がいいと思う・・・・




当たり前だけど

JWの出版物とはレベルが違うから・・・w




最近は

ものみの塔は

こんな本もネットで読めるようにしているけど・・・

seiki0.jpg


使徒たちの活動の書の

解説本なんだろうけど


相変わらず内容の薄いこと・・・汗




さて


「ナザレのイエス」の本の


後半部分では



第8章 ヨハネ福音書の主要な象徴

「水」

ぶどうの木とぶどう酒」

「パン」

「牧者 (羊飼い)」



となり・・・



一番読みたかった

ヨハネの福音書は第8章である・・・



その後・・・


第9章 イエスの道行きを画する二つの重大な出来事


第10章 イエスの自己表明



と終わるのだが・・・



この本のあとがきには・・・・


(以下 引用)


本書はこの著書の第一巻であり、イエスの公生活の半ばまでしか扱っていない。ガリラヤでの宣教活動の終盤にあたってペトロがイエスを「メシア、生ける神の子」と告白し、それに続いてイエスの変容という神秘的な出来事が起きたことが報じられているところまでである。これからイエスのエルサレムの道行きが始まり、エルサレムでの受難、十字架上での死、復活が待ち受けている。これが第二巻ということになるが、著者の高齢とローマ教皇という激務を考えると、神が著者にそのための力と時間をお与えになることを心より祈らずにはいられない。


(以上 引用終わり)




と書いてあり・・・



第2巻もあるんじゃん!汗





Jesus von Nazareth 02Jesus von Nazareth 02
(2011/03)
Benedikt XVI.

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しかもまだドイツ語・・・・orz



現教皇が生きている間に



日本語版読めるんだろうか・・・・?汗











*CommentList

イエスかバラバか・・





ものみの塔の聖書からの洞察では

新約聖書に出てくるバラバという人物に関しては

こんな風に言及されている・・・



(以下 引用)




バラバ

(Barabbas)[「父の子」。「教師の子」という意味かもしれない]

強盗,暴動,殺人の罪で投獄されていた犯罪者。ピラトはイエスの代わりにこの者を釈放しました。ピラトがそうしたのは,祭司長や年長者たちが強く主張し,群衆がバラバの釈放を叫び求めたため,それらの「群衆を満足させることを願っ(た)」からでした。―マタ 27:15‐26; マル 15:6‐15; ルカ 23:16‐25; ヨハ 18:39,40; 使徒 3:14。

毎年過ぎ越しの晩に一人の囚人を釈放するというこの特異な習慣は,ヘブライ語聖書を見ても根拠や先例はなく,それがローマの慣行だったことを示す聖書以外の証拠も一切ありません。恐らくユダヤ人がこの習慣を作り出したのでしょう。なぜなら,ピラトがユダヤ人に,「あなた方には,過ぎ越しの際わたしが一人の者を釈放する習慣がある」と述べたからです。―ヨハ 18:39。


(以上 引用終わり)


ものみの塔ライブラリイの他の記述を探しても

これ以上の情報はほとんど見当たらない・・・



一方キリスト教会の方では

バラバについては

説教などでも取り上げられているようで


「ナザレのイエス」の本でも


イエスがサタンに高い山に連れられて

世界王国に対する支配を

イエスに提供しようとする誘惑について

説明した後に



この「バラバ」のことが取り上げられていた・・・



以下 

「JESUS VON NAZARETH  ナザレのイエス」

教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー・著 


67〜73ページ引用 ※ピンク線は私が付加








 主の受難の物語において、第三の誘惑の物語で問題とされている二者択一が、思いがけない展開をとって現われます。裁判のクライマックスの場面で、ピラトは民衆に、イエスか、バラバか、どちらかを放免するかを選ばせます。私たちは普通ヨハネ福音書の記述を耳にしています。「バラバは強盗であった」(ヨハネ18・40)。しかし、ギリシャ語の強盗という言葉は、当時のパレスティナの政治状況のもとでは特別の意味を持ち得ました。それは「レジスタンスの闘士」というに等しかったのです。バラバは暴動に参加していたのです。(マコ15・7)。そしてさらに、そのことで殺人のかどで告訴されていたのです。(ルカ23・19、23・25)。マタイがバラバは「評判の囚人」であったと言うとき、それは彼が有名なレジスタンスの闘士であり、恐らくその暴動の本来の首謀者であったことを指しているのです。(27・16)。


 言いかえれば、バラバはメシア的な人物でした。イエスか、バラバか、という選択は偶然ではありません。二人のメシア的な人物、メシアニスムの二つの形態が相対していたのです。更に、バラバの名前から、これはさらに明らかとなります。バラバ(Barabbas)は、Bar-Abbas「父の子」です。これは典型的な、メシア的な名前、メシア的な運動の優れた指導者に与えられる贈り名です。西暦132年のユダヤ人の最後のメシア的な戦争の指導者、バル・コクバ(Bar-Kochba)は「星の子」を意味します。これは同じ様な命名であり、同じ意図によって名づけられたものなのです。


 オリゲネスはさらに細部にわたる興味深い事実を教えてくれます。三世紀までの福音の多くの写本において、この男は「イエス・バラバ」の名で知られています。「父の子イエス」です。彼は、イエスの一種の影武者です。もちろん、彼はメシアであるとの主張をイエスとはまったく異なった方法で理解していたのです。選択は二人のメシアの間にあります。自由と自分たちの固有の国を約束する闘士と、いのちへの道として献身を教える、この神秘的なイエスとの、どちらを取るかということです。群衆がバラバを選んだのは不思議なことではありませんでした。(詳しくは、Vittorio Messori, Geelitten unter pontius ?, deutsche: Adamas, Koln,1997,S. 64-76)。



 今日、私たちが選ぶとしたら、マリアの子、ナザレのイエス、「父の子」はチャンスがあったでしょうか。大体、私たちはイエスを知っていると言えるのでしょうか。私たちは彼を理解できているのでしょうか。・・・・・・


こうして第三の誘惑はもっとも根本的な誘惑であることがわかります。それは救い主は何をなすべきかという問いを扱っています。この問いはイエスの生涯を貫いています。この問いは、彼の彼の道行きの決定的な転換点においてもう一度姿を表します。・・・・・ペトロの信仰告白に対し、主はただちに宣言します。メシアについては預言者の使信の全体から理解されるべきであること、イエスの思いは世俗的な権力のことではなく、十字架であり、十字架を通して建てられる、まったく異なった共同体のことであることを、イエスは明らかにするのです。


 ペトロはしかし、イエスの言葉を理解しませんでした。「すると、ペトロはイエスを脇に連れて行き、イエスを批難しました。主よ、そのようなことがあってはなりません。そのようなことがあなたに起きることがあったはあってはなりません」。この言葉を、誘惑の物語を背景として読み、決定的な瞬間における誘惑の繰り返しとして理解するとき、その時初めて、イエスの信じられないほどの厳しい答えを理解できるのです。「サタンよ、退け! お前はわたしを倒そうとしている。お前の考えていることは、神の思いではなく、人間の思いなのだ」(マタ16・22以下)。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・イエスはその生涯の道行きの全行程において、そして復活の後においてさえまた新たに、弟子たちに、モーセと預言者たちが彼について、極限にいたるまで無力な者であり、苦しみを受け、十字架につけられて、復活したことについて語っていたことを、教えなくてはなりませんでした。彼はそのようにしてこそ約束は成就されるのだということを、示さなくてはならなかったのです。「ああ、物分かりの悪い者たちよ、預言者たちの言ったことすべてを信じるのは、お前たち心の鈍い者にとっては何と難しいことか」。エマオの弟子たちに向かって主はそのように語られ(ルカ24・25)、私たちに対しても、世紀を超えて繰り返し同じことを言わなくてはならないのです。それというのも、私たちはいつも、彼がメシアであるなら、黄金時代をもたらしてくれなくてはと思っているからなのです。


 ・・・・・・・もしイエスが世界の平和、すべての人のための豊かな生活、より良い世界をもたらすのではない、としたら、イエスは一体何をもたらしたのですか。私たちはこの本全体を通じてこの問題に立ち向かわなくてはなりません。


 答えはまったく簡単です。彼は神をもたらしたのです。アブラハムからモーセを通し、知恵文学にいたるまで、ゆっくりとそのみ顔を現わしてきた神を、イエスはもたらしたのです。また諸民族の間においていろいろの形で崇敬されてきたが、イスラエルにのみ、その本来のみ顔を現わされたあの神を、彼はもたらしたのです。・・・・


 彼は神をもたらしました。私たちは今や、神のみ顔を知っております。私たちは今や神に呼びかけることができます。私たちは今や、この世界の人間として取るべき道を知っております。イエスは神をもたらし、それによって私たちがどこから来てどこへ行くのかについての真理をもたらしました。彼は信仰と希望と愛をもたらしました。私たちの心が堅いために、わたしたちがそれでは少ない、何の役にも立たないと考えるのです。確かに、神の力はこの世界ではかすかなものです。しかしそれは真の力、常に働く力です。「神の大義」は、いつも死の苦しみのうちにあるように思われます。しかし、それはそのたびごとに真に持続するもの、救いの力として現われるのです。当時サタンが主に示したこの世の帝国は、その後、すべて消え去りました。その輝き、そのドクサ(Doxa)は見せかけのものにすぎないことが暴露されました。しかし、キリストの栄光、へりくだりと苦しみのうちに輝くキリストの愛の輝きは、これまでも、これからも、消えることはありません。


(以上 引用終わり)




自分を含めて

まもなく来ると教えられた


「地上の楽園」(黄金時代)に飛びついて


JWになってしまった人達は・・・


「イエスかバラバか」という選択において


「バラバ」を選んでしまったのであろう・・・orz




071.jpg





悔しさを堪えつつ・・・


最後はやっぱり

承太郎のこのセリフで・・・






120404_0056~01



*CommentList

あなたのみ名が聖とされますように

 


以下 

「JESUS VON NAZARETH  ナザレのイエス」

教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー・著 

P190〜194 から引用








あなたのみ名が聖とされますように



 主の祈りの第一の願いはモーセの十戒の第二の掟、「あなたは神の名を汚してはならない」を思い起こさせます。しかし「神の名」とは何なのでしょうか。これについて語るとき、燃えているが燃え尽きない柴の前に立つ、荒れ野のモーセの姿が思い起こされます。まず、この不思議な出来事を近くから見ようという好奇心がモーセを突き動かします。しかし、柴の中から彼を呼ぶ声があり、彼に告げられます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出3・6)。この神が、モーセをエジプトに送り返し、イスラエルの民をエジプトから救いだし、約束の地に導き入れたのです。モーセは神の名によってイスラエルの解放をファラオに要求します。


 しかし、当時の世界には多くの神々がいました。そこでモーセは、それらの神々に対しこの神の特別の権威を示すために、神にその名を尋ねます。その限りにおいて、神が名を持つという考えは多神教の世界の考えです。多神教の世界では神々はそれぞれに名前を持っており、この神も名前を持たなければならなかったのです。しかし、モーセを呼び出した神は真の神です。本来の、そして真の意味での神においては、神が複数存在することはありません。神はその本質からして唯一でなくてはなりません。神は、神々の一人であるかのように、神々の世界に入って行くことはできません。名前を持った他の神々と並んで、名前を持つことはできません。


 したがって、神の名を求めるモーセの問いに対する答えは、同意であると同時に拒否を表しています。神は簡単明瞭に宣言します。「わたしは。『わたしは有る』という者だ」(出3・14)。神は端的に存在なのです。この答えは、名前であると同時に名前でないということです。したがって、JHWHで示される神の名はイスラエルにおいて発音されてはならないということは、全く正しいことなのです。神の名は神々の一つに格下げされてはならないのです。したがって最近の聖書の翻訳において、イスラエルにとって口にしてはならない、この神秘的な名を、どこにでもある名のように書きちらしていることは正しいとは言えないのです。口にすることも絵に描くことも禁じられている神の神秘を、一般宗教史のデーターの一つに格下げしてしまうことは、許されないことなのです。


 もちろん、神はモーセの願いを単純に拒否はしなかったということは確かなことです。この名前と名前でないものとの奇妙な錯綜を理解するためには、名前とは本来何なのかということをはっきりさせなければなりません。簡単に言いましょう。名前は呼び掛けることを可能にします。名前は関係を作るのです。アダムが動物たちに名前をつけたということは、動物たちの本性を示したということではなく、動物たちを人間の世界に組み込んだということ、その名前を呼んで自分たちに役立てようとしたということなのです。そこから、神が名を持つということが積極的に何を意味しているかを知ることができます。神は、人間が神を呼ぶことができるようにしたのです。神は人間との関係の中に入って行き、人間が神との関係を結ぶことができるようにしたのです。それは、神が何らかの形で人間に身を任せたということです。神は人間によって呼びかけられ得るものとなり、傷つくことができるものとなったのです。神は人間との関係に入ることの危険、人間とともにあることの危険を引き受けたのです。


 神の受肉において完成されたことは、神が自らに名を与えることによって始まりました。実際、イエスの大祭司的祈りを考察するとき、イエスがそこにおいて自らを新しいモーセとして示していることがわかります。「わたしは人々にみ名を現しました」(ヨハネ17・6)。シナイの荒れ野の燃える柴で始まったことは、十字架の燃える柴において完成されたのです。神はいまや、人間となった子において、現実に呼びかけ得る者となったのです。神は私たちのその世界の中に入って来、私たちの世界に属する者となったのです。神は自らを、あたかも私たちの手に任されたのです。


 


 ここから私たちは、神の名が聖とされますようにとの願いが、何を意味していたのかを理解することができます。今や、神の名は乱用され、冒涜され得るものとなったのです。神の名を人間の目的のために勝手に使い、神の姿をゆがめることができるようになったのです。神が自らを人間の手に委ねれば委ねるほど、人間は神の光を暗くすることができるのです。神が近くなればなるほど、人間の乱用によって神の姿は見分けがつかないものとなってしまうのです。マルティン・ブーバーは次のように言っています。神の名に対する冒涜的な濫用を耳にするとき、神の名を呼ぶ気が失せてゆく。しかし神の名を呼ばず、沈黙するなら、それはまさに私たちに向けられた神の愛を拒否することになろう。私たちは汚された神の名の断片を非常な畏敬の念を持って再び取り上げ、それを清めることができるだけである。ブーバーはそのように言っています。しかし、私たちだけではそれをすることができません。私たちは、神がその名の輝きをこの世において破壊されるにまかせないよう、神に願うことができるだけです。


 神ご自身が神の名を聖なるものとしてくださるようにとの願い、神に呼びかけることができるというこの素晴らしい神秘を私たちのために守ってくださるようにとの願い、そして私たちがおこなった神の名の歪曲の暗雲の中から神の光が再び輝きだすようにという願い、この願いはもちろんのこと、私たちにとっては常に心からの良心の糾明でもあるのです。私は神の聖なる名をどのように扱っただろうか。私は燃える柴の神秘に対して、理解を超える神の近さの神秘に対して、充分な畏敬の念を持って対しただろうか。現に聖体の秘跡において私の手の中にまで自らを委ねられるキリストの現存の神秘に対して、私は充分な畏敬の念を持って対しただろうか。神が私たちとともにおられるという神秘を神の名を穢す機会とすることなく、かえってその神秘によって神の純粋さと聖性の中に高められるよう、私は充分に心を配っただろうか。





(以上 引用 終わり)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇







<最近の聖書の翻訳において、イスラエルにとって口にしてはならない、この神秘的な名を、どこにでもある名のように書きちらしていること>


これって

JWの新世界訳のことなのかな・・・?



いや

そんなことよりも


とにかく興味深い内容だ・・・・






*CommentList

第4章 神とはだれですか 




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JWの

「地上の楽園」の本の

第4章に・・・


「神とはだれですか」という章があった・・・





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××年前の初夏の頃・・・


この章を研究してすっかり騙された・・・・orz



全能の神の名は「エホバ」で


「エホバ」という名を使って崇拝することが


肝要だと思いこまされたのだ・・・




何でこの4章を


話題に持ちだすかと言えば・・・



この前買った「ナザレのイエス」の本の中に


「主の祈り」の解説があったからだ・・・


ナザレのイエスナザレのイエス
(2008/12)
教皇ベネディクト16世ヨゼフラツィンガー

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主の祈りの解説は


「カトリック教会のカテキズム」にも出ているが・・・


「ナザレのイエス」の方では

カテキズムの内容に沿ったものとなっているようだ・・・



 (ちなみにカテキズムの本の編成の際には

 ラツィンガー枢機卿が委員長になっている)



<続く>



*CommentList

神秘の子羊の礼拝





   神秘の子羊

      

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     「神秘の子羊(の礼拝)」







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ユダヤ人予言者と非キリスト教徒たち



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教皇と聖職者たち



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男性殉教者たち



545px-Ghent_Altarpiece_D_-_Women.jpg

女性殉教者たち


(以下 Wikipeidaから引用)


神秘の子羊と崇拝者たち

中央の大きなパネルに描かれているのは、神の子羊の崇拝である。崇拝にやってきた人々が四方に列を作っている。その上空には鳩(聖霊)が光を放っている。子羊を取り囲んでいるのは14人の天使たち。手前では、生命の泉が噴き出、宝石を敷き詰めた小川に清水を流している。

向かって左側を見ると、泉のそばにユダヤ人予言者が聖書もしくはユダヤの本を持って跪いている。その後ろにいる人たちは、その東洋風の風貌や種々雑多な帽子から判断して、世界中から集まってきた非キリスト教徒(古代ローマも含まれる)の哲学者・著作家たちと思われる。白い長衣を着た人物はおそらくウェルギリウスだろう。中世ヨーロッパではウェルギリウスはキリストに先立つ人物と考えられていた Christian avant-la-lettre。

右側にいるのは十二使徒たちである。その後ろには使徒たちに仕える男性の聖者たち。手前にいるのは、教皇と聖職者たち。教皇のすぐ後ろにいるのは聖ステパノで、彼を殉死させた岩を抱えている。

奥の右側にいるのは男性殉教者(全員が聖職者)、左側には殉教のシュロを持った女性殉教者たち。女性のうち何人かはその特徴から誰かはわかっている


(以上 引用終わり)




    ・・・・・・アーメン!




・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆








フランシスコ会訳聖書・・・と



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「カトリック教会のカテキズム」と・・・




カトリック教会のカテキズムカトリック教会のカテキズム
(2002/07/31)
日本カトリック司教協議会 教理委員会

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カテキズムも

値段が高いから迷ったけど・・・・





買って良かった・・・・w


探求レベルの深さが


ものみの塔の出版物とは全然違う・・・





たかが100年ぐらいの新興宗教と


2000年の数えきれないぐらいの

信仰者の探求を集めたものとでは


深さが違ってあたりまえか・・・




それにしても

新世界訳以外の一般のまともな聖書読むと


天的なものへの切望心が

どんどん湧いてくるのだ・・・・







(以下 フランシスコ会訳ヘブライ11:9-10,16 引用)

信仰によってアブラハムは神の約束の地にあたかも異国の地にいるかのように留まり、同じ約束をともに受け継いだイサクやヤコブとともに幕屋に住みました。アブラハムは、堅固な土台の土地の上に立てられた都(7)を待ち望んでいたのです。この都の設計者、並びに建設者は神なのです。・・・・・・・しかし、実際、彼らがあこがれていたのは、もっと善い所、すなわち天の故郷だったのです。それで神は、彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。彼らのために都を準備されていたからです。(10)


脚注(7)この都は天のエルサレム(12・22、黙21・2,10-17参照)を指す

脚注(10)・・・・「都を準備する」は、神がこの約束を果たすために、カナンの地よりも優れたもの、すなわち天のエルサレムを準備した。



(以上 引用 終わり)



そういえば

gogakuさんが

アブラハムなども天にいくことを

ブログで書いていたそうです





「族長も天に行く」





JWの場合は

アブラハムとかバプテストのヨハネは


「地上の楽園」に行くって主張しているけどね・・・




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