ものみの塔の聖書からの洞察では
新約聖書に出てくるバラバという人物に関しては
こんな風に言及されている・・・
(以下 引用)
バラバ
(Barabbas)[「父の子」。「教師の子」という意味かもしれない]
強盗,暴動,殺人の罪で投獄されていた犯罪者。ピラトはイエスの代わりにこの者を釈放しました。ピラトがそうしたのは,祭司長や年長者たちが強く主張し,群衆がバラバの釈放を叫び求めたため,それらの「群衆を満足させることを願っ(た)」からでした。―マタ 27:15‐26; マル 15:6‐15; ルカ 23:16‐25; ヨハ 18:39,40; 使徒 3:14。
毎年過ぎ越しの晩に一人の囚人を釈放するというこの特異な習慣は,ヘブライ語聖書を見ても根拠や先例はなく,それがローマの慣行だったことを示す聖書以外の証拠も一切ありません。恐らくユダヤ人がこの習慣を作り出したのでしょう。なぜなら,ピラトがユダヤ人に,「あなた方には,過ぎ越しの際わたしが一人の者を釈放する習慣がある」と述べたからです。―ヨハ 18:39。
(以上 引用終わり)
ものみの塔ライブラリイの他の記述を探しても
これ以上の情報はほとんど見当たらない・・・
一方キリスト教会の方では
バラバについては
説教などでも取り上げられているようで
「ナザレのイエス」の本でも
イエスがサタンに高い山に連れられて
世界王国に対する支配を
イエスに提供しようとする誘惑について
説明した後に
この「バラバ」のことが取り上げられていた・・・
以下
「JESUS VON NAZARETH ナザレのイエス」
教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー・著
67〜73ページ引用 ※ピンク線は私が付加 主の受難の物語において、第三の誘惑の物語で問題とされている二者択一が、思いがけない展開をとって現われます。裁判のクライマックスの場面で、ピラトは民衆に、イエスか、バラバか、どちらかを放免するかを選ばせます。私たちは普通ヨハネ福音書の記述を耳にしています。「バラバは強盗であった」(ヨハネ18・40)。しかし、ギリシャ語の強盗という言葉は、当時のパレスティナの政治状況のもとでは特別の意味を持ち得ました。それは「レジスタンスの闘士」というに等しかったのです。バラバは暴動に参加していたのです。(マコ15・7)。そしてさらに、そのことで殺人のかどで告訴されていたのです。(ルカ23・19、23・25)。マタイがバラバは「評判の囚人」であったと言うとき、それは彼が有名なレジスタンスの闘士であり、恐らくその暴動の本来の首謀者であったことを指しているのです。(27・16)。
言いかえれば、バラバはメシア的な人物でした。イエスか、バラバか、という選択は偶然ではありません。二人のメシア的な人物、メシアニスムの二つの形態が相対していたのです。更に、バラバの名前から、これはさらに明らかとなります。バラバ(Barabbas)は、Bar-Abbas「父の子」です。これは典型的な、メシア的な名前、メシア的な運動の優れた指導者に与えられる贈り名です。西暦132年のユダヤ人の最後のメシア的な戦争の指導者、バル・コクバ(Bar-Kochba)は「星の子」を意味します。これは同じ様な命名であり、同じ意図によって名づけられたものなのです。
オリゲネスはさらに細部にわたる興味深い事実を教えてくれます。三世紀までの福音の多くの写本において、この男は「イエス・バラバ」の名で知られています。「父の子イエス」です。彼は、イエスの一種の影武者です。もちろん、彼はメシアであるとの主張をイエスとはまったく異なった方法で理解していたのです。選択は二人のメシアの間にあります。自由と自分たちの固有の国を約束する闘士と、いのちへの道として献身を教える、この神秘的なイエスとの、どちらを取るかということです。群衆がバラバを選んだのは不思議なことではありませんでした。(詳しくは、Vittorio Messori, Geelitten unter pontius ?, deutsche: Adamas, Koln,1997,S. 64-76)。
今日、私たちが選ぶとしたら、マリアの子、ナザレのイエス、「父の子」はチャンスがあったでしょうか。大体、私たちはイエスを知っていると言えるのでしょうか。私たちは彼を理解できているのでしょうか。・・・・・・
こうして第三の誘惑はもっとも根本的な誘惑であることがわかります。それは救い主は何をなすべきかという問いを扱っています。この問いはイエスの生涯を貫いています。この問いは、彼の彼の道行きの決定的な転換点においてもう一度姿を表します。・・・・・ペトロの信仰告白に対し、主はただちに宣言します。メシアについては預言者の使信の全体から理解されるべきであること、イエスの思いは世俗的な権力のことではなく、十字架であり、十字架を通して建てられる、まったく異なった共同体のことであることを、イエスは明らかにするのです。
ペトロはしかし、イエスの言葉を理解しませんでした。「すると、ペトロはイエスを脇に連れて行き、イエスを批難しました。主よ、そのようなことがあってはなりません。そのようなことがあなたに起きることがあったはあってはなりません」。この言葉を、誘惑の物語を背景として読み、決定的な瞬間における誘惑の繰り返しとして理解するとき、その時初めて、イエスの信じられないほどの厳しい答えを理解できるのです。「サタンよ、退け! お前はわたしを倒そうとしている。お前の考えていることは、神の思いではなく、人間の思いなのだ」(マタ16・22以下)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・イエスはその生涯の道行きの全行程において、そして復活の後においてさえまた新たに、弟子たちに、モーセと預言者たちが彼について、極限にいたるまで無力な者であり、苦しみを受け、十字架につけられて、復活したことについて語っていたことを、教えなくてはなりませんでした。彼はそのようにしてこそ約束は成就されるのだということを、示さなくてはならなかったのです。「ああ、物分かりの悪い者たちよ、預言者たちの言ったことすべてを信じるのは、お前たち心の鈍い者にとっては何と難しいことか」。エマオの弟子たちに向かって主はそのように語られ(ルカ24・25)、
私たちに対しても、世紀を超えて繰り返し同じことを言わなくてはならないのです。それというのも、私たちはいつも、彼がメシアであるなら、黄金時代をもたらしてくれなくてはと思っているからなのです。 ・・・・・・・もしイエスが世界の平和、すべての人のための豊かな生活、より良い世界をもたらすのではない、としたら、イエスは一体何をもたらしたのですか。私たちはこの本全体を通じてこの問題に立ち向かわなくてはなりません。
答えはまったく簡単です。彼は神をもたらしたのです。アブラハムからモーセを通し、知恵文学にいたるまで、ゆっくりとそのみ顔を現わしてきた神を、イエスはもたらしたのです。また諸民族の間においていろいろの形で崇敬されてきたが、イスラエルにのみ、その本来のみ顔を現わされたあの神を、彼はもたらしたのです。・・・・
彼は神をもたらしました。私たちは今や、神のみ顔を知っております。私たちは今や神に呼びかけることができます。私たちは今や、この世界の人間として取るべき道を知っております。イエスは神をもたらし、それによって私たちがどこから来てどこへ行くのかについての真理をもたらしました。彼は信仰と希望と愛をもたらしました。私たちの心が堅いために、わたしたちがそれでは少ない、何の役にも立たないと考えるのです。確かに、神の力はこの世界ではかすかなものです。しかしそれは真の力、常に働く力です。「神の大義」は、いつも死の苦しみのうちにあるように思われます。しかし、それはそのたびごとに真に持続するもの、救いの力として現われるのです。当時サタンが主に示したこの世の帝国は、その後、すべて消え去りました。その輝き、そのドクサ(Doxa)は見せかけのものにすぎないことが暴露されました。しかし、キリストの栄光、へりくだりと苦しみのうちに輝くキリストの愛の輝きは、これまでも、これからも、消えることはありません。
(以上 引用終わり)
自分を含めて
まもなく来ると教えられた
「地上の楽園」(黄金時代)に飛びついて
JWになってしまった人達は・・・
「イエスかバラバか」という選択において
「バラバ」を選んでしまったのであろう・・・orz

悔しさを堪えつつ・・・
最後はやっぱり
承太郎のこのセリフで・・・

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